頭の中の声がほとんどなくなって(まだたまに聞こえるし、自動思考もときどき出てきます)、いろいろな気づきがあり面白いです。
日記を書く習慣があったり思考を観察するというのは以前にもやっていたりしていて、思考を俯瞰して見ることに慣れていたので私は思考のほうが先に落ち着いてきたけど、体の感覚はまだまだだなぁと思っていました。
自動思考がなくなったら体のほうの感覚も分かるようになると思っていたので、「体は体でもう少し意識的にワークをしないといけないのかな、まぁ、体のほうは、エレ呼を続けたり自分の動きに気づき続けるようにしたりしながら、気長に取り組めばいいや」と思っていました。
それで最近はこの動画を見ながら、体の特に中のほうを意識してみたり。
前にここで、「きれいだなぁ」とか「おいしいなぁ」とかそういう感覚を言葉で感じるのではなく、それそのままを感じられるようになりたいと書いたかもしれません。
感じるのと同時に言葉で「きれいだなぁ」とか「おいしいなぁ」とかが出てきていたので。
今まではそんなことすら気づかずにいたけれど、右脳回帰のことを知ってから、本当は体で感じた感覚があるのにそれを感じる間もなく瞬時に言葉でかき消しているんだと気づきました。
それがものすごくもったいないことのような気がして。
でも、頭の中の言葉がなくなったので、それができるように?なりました。
さっきご飯を食べながら……
・・・(左脳:お味噌汁熱いなぁ)
・・・(左脳:キーマカレー辛いなぁ)
・・・(左脳:お味噌汁のお出汁おいしいなぁ)
・・・(左脳:窓から差し込む太陽がきれいだなぁ)
などなど。
それでふっと気づいたのですが、自動思考がなくなって声が聞こえなくなったら、自動的に体の中の感覚を感じられるようになっていたのです。
あぁ、自動思考に取り組めば、体の感覚は自然に分かるようになるというのはこういうことかと腑に落ちました。
「おいしい」も「きれい」も全部意味づけであって、それそのものを味わっているわけではなかったなぁと思います。
先週から、気づいたときだけですが、物を特に見るときに言葉を介して見ないようにしていました。
物の名前を極力考えないという感じでしょうか。あえて言うなら「それ、それ、それ……」だけどとにかく名前を知らない振りをするというか……。
(そのとき、一瞬だけですが、右脳回帰された方が仰る視線がスーンッを感じました。すぐ普通に戻りましたが)
物を見るときも同じで、自動的に全部意味づけしながら見ているなと思いました。
カーテンレールに洗濯物がかけてあるのを見て、
・・・(左脳:服)がかかってるなぁ
とか。
暑い・寒いも同じでした。
・・・(左脳:暑い暑い)
自動思考がなくなれば体の感覚が生き生きし始めるというのは、逆に言うと、自分がいかに思考のフィルターを通して物事を見たり聴いたり感じたりしているかということを表しているなと思いました。