右脳回帰をしてから、もうすぐ半年が経ちます。
右脳回帰を目指していたころよりも、今は軽くいろいろ取り組んでいます。
自動思考は言葉で湧くことはほぼなく、イメージとして湧いてくる感じです。
なので頭の中のおしゃべりはほとんどありません。
イメージはなかなか厄介ですが、今のところ飲み込まれなければいいやという感じで、俯瞰して見るように心がけているくらいです。
もちろん反芻思考はなくなり、本当に楽になりました。
思考や感情は、とにかく第三者目線で眺めることを徹底しています。
そのほかにも、言葉抜きの体の感覚に集中したりもしています。たとえば「イライラする~」と思ったときに、「イライラ」という言葉を横に置いておいて、体はどういうふうに感じているのかを感じるようにしています。
よく、「言語化することで、自分の感情が明確になり楽になる」云々という話がありますが、逆に言語化することで言葉にふりまわされることになる気がします。
何かを感じたとき、何かの考えが浮かんだとき、とにかく言葉を抜いていく。
言葉を抜いた後に残ったものを感じてみる。
もちろん、言語化することもこの社会においては大切で・・・といういか、今はそちらのほうが重要視されている時代なので、個人的な経験から、言語化できる能力もすっかりなくしてしまうのはどうかと思います。
言葉抜きで物事を見たり、言語化したり、そのどちらにも行ったりきたりできる能力があるといいのかもしれません。
やっぱり、なぜこの肉体をもってこの時代を生きている(選んでいる)のかと考えれば、「本体のわたし」はこれを経験したくて生きていると思うので。
それともう1つ。
実現させたいことが実現しないもどかしさをずっと持っていたのですが、少しずつ「現実」に対する執着も薄らいできました。
思考や感情には飲み込まれなくなったけれど、まだ「現実」に飲み込まれることがありました。
でもふと気付いたんです。
「現実」も思考や感情と同じく、言葉抜きで見ればいいだけなんだと。
現実を「思考」で見ていたことになんとなく気付きました。まぁ、現実って自分の受け止め方みたいなところもあるし。
言葉抜きで見てみたら、ただただそこにはいのちのダイナミズムがあるだけ。
言葉抜きってすごくて、この世界のすべてが生命の波みたいなものだということに気付けます。
現実もただの波なんだと分かりました(私の実感として)。そしてさらに「別の領域」「それ」を簡単に感じられるようになりました。
静かだ・・・言葉抜きって「沈黙」なんですよね。
鳥の鳴き声が聞こえてこようが、人々の楽しそうな話し声、または喧嘩している声が聞こえていようが、都会の喧噪の中にいようが、この世界には「沈黙」が充満しているんです。
この「沈黙」がない場所なんてない。
そしてあるとき、これこそがいわゆる「愛」だって体感したんです。
この「沈黙」の空間では許されないこと、受け入れられないことは何1つないんです。この空間が包んでいない場所なんてどこにもないんです。それこそが愛なんだと気付いて、震えました。
すべてが今目の前にもうすでに在る。本当に大事なことはこれだけなのかもしれません。


