全然投稿していなくてすみません。
はてなブログを開くことがあまりないのでなかなか投稿できずにいたのですが、Amebaブログをずっと持っていてそちらを開くことのほうが多いので、今後はそちらメインで書いていきます。
右脳回帰についてというよりは、非二元・ノンデュアリティの方面の気づきが深まってきたのでそれについて書いています。
ご興味があればのぞいてみてください。
こちらのブログは基本的にアメブロのリンク掲載ブログとして生かしておこうかなと思います。
全然投稿していなくてすみません。
はてなブログを開くことがあまりないのでなかなか投稿できずにいたのですが、Amebaブログをずっと持っていてそちらを開くことのほうが多いので、今後はそちらメインで書いていきます。
右脳回帰についてというよりは、非二元・ノンデュアリティの方面の気づきが深まってきたのでそれについて書いています。
ご興味があればのぞいてみてください。
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右脳回帰をしてから、もうすぐ半年が経ちます。
右脳回帰を目指していたころよりも、今は軽くいろいろ取り組んでいます。
自動思考は言葉で湧くことはほぼなく、イメージとして湧いてくる感じです。
なので頭の中のおしゃべりはほとんどありません。
イメージはなかなか厄介ですが、今のところ飲み込まれなければいいやという感じで、俯瞰して見るように心がけているくらいです。
もちろん反芻思考はなくなり、本当に楽になりました。
思考や感情は、とにかく第三者目線で眺めることを徹底しています。
そのほかにも、言葉抜きの体の感覚に集中したりもしています。たとえば「イライラする~」と思ったときに、「イライラ」という言葉を横に置いておいて、体はどういうふうに感じているのかを感じるようにしています。
よく、「言語化することで、自分の感情が明確になり楽になる」云々という話がありますが、逆に言語化することで言葉にふりまわされることになる気がします。
何かを感じたとき、何かの考えが浮かんだとき、とにかく言葉を抜いていく。
言葉を抜いた後に残ったものを感じてみる。
もちろん、言語化することもこの社会においては大切で・・・といういか、今はそちらのほうが重要視されている時代なので、個人的な経験から、言語化できる能力もすっかりなくしてしまうのはどうかと思います。
言葉抜きで物事を見たり、言語化したり、そのどちらにも行ったりきたりできる能力があるといいのかもしれません。
やっぱり、なぜこの肉体をもってこの時代を生きている(選んでいる)のかと考えれば、「本体のわたし」はこれを経験したくて生きていると思うので。
それともう1つ。
実現させたいことが実現しないもどかしさをずっと持っていたのですが、少しずつ「現実」に対する執着も薄らいできました。
思考や感情には飲み込まれなくなったけれど、まだ「現実」に飲み込まれることがありました。
でもふと気付いたんです。
「現実」も思考や感情と同じく、言葉抜きで見ればいいだけなんだと。
現実を「思考」で見ていたことになんとなく気付きました。まぁ、現実って自分の受け止め方みたいなところもあるし。
言葉抜きで見てみたら、ただただそこにはいのちのダイナミズムがあるだけ。
言葉抜きってすごくて、この世界のすべてが生命の波みたいなものだということに気付けます。
現実もただの波なんだと分かりました(私の実感として)。そしてさらに「別の領域」「それ」を簡単に感じられるようになりました。
静かだ・・・言葉抜きって「沈黙」なんですよね。
鳥の鳴き声が聞こえてこようが、人々の楽しそうな話し声、または喧嘩している声が聞こえていようが、都会の喧噪の中にいようが、この世界には「沈黙」が充満しているんです。
この「沈黙」がない場所なんてない。
そしてあるとき、これこそがいわゆる「愛」だって体感したんです。
この「沈黙」の空間では許されないこと、受け入れられないことは何1つないんです。この空間が包んでいない場所なんてどこにもないんです。それこそが愛なんだと気付いて、震えました。
すべてが今目の前にもうすでに在る。本当に大事なことはこれだけなのかもしれません。
もうDayが何日かわからなくなってしまいました。
でも、右脳回帰してからそろそろ5ヵ月が終わるころ。
正直、右脳回帰からどちらかというとノンデュアリティの方向へ進んでいる感じです。
Youtubeの潜在意識のまとめチャンネルを見たり、ノンデュアリティのYoutubeを見たりしていると、ふっと新たな気づきみたいなものが降りてきておもしろいです。
ある日突然頭の声がやんで右脳回帰したのですが、それでもうっすら画像的なものが湧いてきて、今でも声は聞こえなくとも画像による思考がワサワサすることはあります。
だけど、やっぱり私にとって大きいのは、右脳回帰する前に「別の領域」とか「空間」とか「それ」とか「空」とか、いろいろ呼び方はあるけれど、それに気づけたことです。
それがあることの安心感たるや。思考や感情に飲み込まれそうになったら、すぐさまそこに逃げ込みます。
いつもそこにいれるようになるのが一番(=潜在意識のクラゲさんみたいな)だと思うので、今はそれを練習中。
呼び方がいろいろあってややこしいので、「別の領域」とまとめますが、よく言われますが、どこかにあるわけではなく、「今ここ」「目の前」にあるんですよね。
それに加えて私が感じるのは、「別の層」にあるということです。
パラレルワールドってこういうことでもあるのかなと思うのですが、今目の前には、見えている層だけではなく、別の領域の層もあるように感じます。
よく、「次元は折りたたまれている」というじゃないですか。それだと思うんです。
別の領域は、今目の前の空間の中に折りたたまれて別の層に存在しているように私は感じます。
ちなみに、全部「わたし」です。別の空間であろうが目の前のいわゆる「現実」の層であろうが、境界はなく、全部わたしです。エゴの自分ではなく。
そして、昨日の気づきは、この別の領域=潜在意識かなということ。そして願望実現というのは、この別の領域にずっといればいいのかなということ。
まだまだ実験過程で言葉足らずですが、ひとまず自分のメモ的に残しておきます。
・・・ちなみに・・・
昨日、好きな人からメールがありました。
年明けから3月は毎年忙しいので、しばらく連絡がなくても忙しいんだなと思うだけですが、やっぱり連絡があると嬉しい。
近々会えそうか・・・。半年ぶりです。
アラフィフの恋愛与太話でした。
またまたお久しぶりのブログ。
気が付いたらもう3月。右脳回帰ワークを始めてから丸半年が過ぎ、右脳回帰してから4ヵ月が経った。
仕事が忙しく締め切り続きで、お正月明け以降は息つく暇もありませんでした。
2月に入って出勤の仕事が始まる前に「これはもう休まねば」と思って少し休みを取りましたが、3月に入って間もない一昨日、なんとギックリ腰になってしまい作業の追い込みのときに休むことに(ほかの仕事があるので完全な休みではないですが)。
そんなこんなでいろいろとありますが、思考・感情の暴走はありません。
最初は、よく言われるように「思考はわたしではない」というのが腑に落ち、その後「肉体もわたしではない」と気付きました。
そして「こころでさえもわたしではない」と思ったときに、思考・心を含めた肉体的な「わたし」を外から見ている「意識であるわたし」の分身的なものとしての「わたし」(なんかまどろっこしいというかややこしい言い方ですが)の視座へ自由に行き来できるようになりました。
純粋な意識は「自我」がないのかなと思うので、その意味もこめて「分身的な」と言っています。
もっと簡単に言えば、客観的に自分を見られるようになったということです。
それでなぜ思考や感情が暴走しないかと言えば、思考や感情が湧いている肉体を外側から眺められるようになったからです。
潜在意識のまとめチャンネルでよく出てくる「観察者」という感じかな?
ふっと思考や感情が湧いた時に、「自分」を周囲の空間に溶け込ませる(溶け込んだように感じるようにする)と、「起きてるな~、湧いてるな~、動いてるな~」というような他人事のような感覚で自分を見ることができます。
そうすると全然飲み込まれなくて、感情や思考もすぐに流れていってしまうのを実感します。
喜怒哀楽は普通に感じるしそれに伴う、心が痛んだり胸が苦しくなったりもありますが、それに飲み込まれません。
そういう時は、「ああ、肉体がそういうふうに感じてるな」と客観的になるから痛みや苦しさが長引かない。
右脳回帰後の4ヵ月目はそんな感じです。
すごく久々のブログになってしまいました😅。
仕事が忙しくて&右脳回帰後でぼーっとした心地よさに浸っていて、記録を付けることをすっかり忘れてしまっていました。
最近は、とにかくメモだけでもしておかないとすぐ忘れてしまうので、ブログなりネドじゅんさんが主催されているオンラインサロン「三脳研」の日誌にできるだけ記録を残したいなと思っています。
で、タイトルにある「お腹に投げる」ですが、これも右脳回帰するまではすごいやっていたんです。なんでもかんでもお腹に放り投げていたのに、右脳回帰してからすっかり忘れていて、先日三脳研の中でお喋り会があって皆さんがネドさんにいろいろと質問されていた中で「お腹に投げる」に関する質問がいくつかあってはっと思い出しました。
右脳回帰前は自動思考はもちろんのこと、願いもわからないことも、何か聞きたいこともすべてすべてお腹に投げ込んでいたのに・・・。
まだまだ体に染みつくまでやりきれていなかったと気づきました。
どんなことも、無意識にできるようになるまで(体が勝手にやってくれるようになるまで)は意識的に継続してやらないとなかなか身につきません。
ひとまず今日から年末までは「お腹に投げる」を意識してやり続け、その後もとにかく無意識でできるようになるまでになりたい(←これもお腹に投げ込んだ)。
ちなみに、願いをお腹に投げ込むときに、私の場合、例えば「お腹が痩せたい!」とだけ投げ込んでもなんだか体感的に苦しいというかすんなりできなくて、「お腹が痩せたいけどどうしたらいい?」とか「お腹が痩せたいけど効果のある方法を教えて」といった具合に投げ込むと、いい具合に返答がかえってくる気がします。
返答は別に声で聞こえるとかではなく、ピンとくる方法をウェブで見つけるとか、ただ単に思いついてやってみたら効果があったとか、そういう感じです。
ちょっとまだ忙しくてばーっと書いてしまいましたが、とにかくいろいろ実験あるのみです!
目の前のことをゆっくり味わいながら過ごす。
今の「自分」はもう会えない。今の体・細胞も、思考も感情もすべて、気づいたときには過去のものになっている。
気がついてしまった…
当たり前といえば当たり前のことなのかもしれないけれど。
今日道を歩いていて風を体に感じて、その後声にならない声が気持ちいいと言った。
でも、この声が聞こえた時点では、感じた風の感覚は過去のものなんだ…
「気持ちいい」はどこまでも頭での理解でしかない。
体で感じたものは、決して頭では掴めないものなんだ。
感じるということの切なさと同時に、尊さも感じた朝だった。
おいしい、気持ちいい、などの感覚を表す言葉すら今ここじゃない。
頭の声が聞こえなくなっても、声なき思考があるときはやはり思考。
そこでは「楽」だけど幸せ感はまだ感じられなかった。
本当の意味で頭がカラッポな時に初めて、体からフツフツ湧き出す感覚を感じられるのかも。
これが感じられたときに、ようやく「いつでも幸せ」、の幸せ感が感じられるのかも。
今朝、なんとも言えない幸福感を感じた。
頭の声がなくなっても、やっぱりまだ体の感覚を頭で理解しようとしていた。頭で幸せ感を求めてた。
体で感じたら頭はカラッポにしておく。それが肝なんだな。何かを掴もうとしてはいけない。
頭で理解した時点で感じたことはもう過去のもの。
頭をカラッポのままにしておくので、はじめは頭で想像した幸せ感は感じられず物足りなさを感じたが、体が感じたことをダイレクトに感じられたときに幸せ感で満たされた。
まだ、一時的にこの幸せ感を感じただけだけど、たぶんこれに慣れてくるとそこはかとなく幸せな状態が常になるのだろうと思う。
前にも書いたけれど、自動思考がなくなって本当に楽になったのは、自分責めの声がなくなったから。
右脳回帰を知る前は、自分のことを否定しない時期もあるけれど何か起きると一気に自分責めの声が聞こえる。
責める声も辛いけれど、この落差というか気持ちのジェットコースターがしんどかった。
今、とても楽なのは気分がフラットだから。
自己肯定もなければ自己否定もない。「それって何ですか~」状態。
今、声を大にして言いたい。
右脳回帰ワークをすれば、自分責めはなくなる。
たとえ右脳回帰していなくても、「自動思考に気づく」ワークをし続けて、「思考は自分でないこと」「思考と距離が取ること」に気づければ、自分責めの声も自動的に減っていつかなくなっていく。
すべての苦しみはこの「自分責め」であると言ってもいいぐらいかもしれない。
「こんな自分じゃダメだ」「だから変わろう」
この思考さえなくなれば、苦しみから解放される。
自分責めしない人が1人でも多くなればいいなと思う、今日この頃。
右脳回帰というか、自動思考をなくす取り組みを始めて一番よかったことはグルグル思考がなくなったことが大きいと思っていたけれど、それよりももっともっとよかったことは、「自分を責める」ことが全くなくなったこと。
頭の声が聞こえなくなってから、自分を責める声も同時に聞こえなくなった。
自動思考がなくなって自分を責めることがなくなったということは、いかに自動思考が自分を責める声として働いていたかということ。
別に、無理に自己肯定やら自愛やらしなくてよかったんだと今は思う。
自愛はよくわからなくてあまりやっていなかったけれど、自分のことが好きになれなくてどうやったら自分を好きになれるんだろうともがいてもがいていろんなことをがんばってがんばって、結局年を取って経験を積んでいくと同時に「こんな自分でいいや」と思えるようになって、自分が好きになれないとかいうのも気にならなくなった。
昔、天然の右脳優位人間である妹が、一緒にテレビを見ているときに言った一言がある。
自分のことが好きになれなくて整形を繰り返している人の話だった。
そのとき妹が言った。
「自分のこと好きになれないとか全然分かんないし信じられない」
(みたいなこと)
そのときの私の衝撃と言ったら・・・・・・
まだまだ悩んでいたときだったから、まさかこんな身近に自分のことが嫌いじゃない人間がいたなんて、と、私はそっちのほうが信じられなかった。
でも今なら分かる。
妹の頭の中には、自分を責める声が全く聞こえてこないんだ。
責める声どころか、今の私のように、頭の声が聞こえず静かだったんだと思う。
頭の声が聞こえなくて自分を責める声も聞こえない=今の自分のままそのままの自分でいいということを自然と受け入れていることになる。
つまり自動思考をなくす以外何もしなくてよかったんだなぁ。
オンラインサロンの研究員の方に「右脳回帰はネドじゅんさんのカラーチャートの紫ゾーンからですよ」とコメントを頂きました。

「ネドじゅん式 意識変容 しあわせ右脳で悟リズム」より
オレンジが右脳回帰だと思い込んでいたのであと少しかなぁとは思っていたのですが、正直ここまで頭が静かになったら、右脳回帰しているか否かはどうでもよくなっていました。
ということで、、、
右脳回帰しました。
とここに記しておきたいとおもいます。
8月末か9月頭ぐらいから右脳回帰ワークを始めたので、2ヵ月で右脳回帰しました。
はじめから「2ヵ月で右脳回帰する」とぼんやりとですが決めていたので、それが実現しました(できなかったらできなかったでそれ以降もワークを続ければいいと思っていました)。
これからは回路の定着のほうに頭を切り替えて、引き続きワークをやっていきたいと思います。
右脳回帰ワークを始めて2ヵ月が過ぎました。
8月24日にこれは・・・・・・と思うことがあり始めた右脳回帰ワーク。
結果、2ヵ月で頭の声がほぼ消えました。
普段からあまりテレビは見ませんが、今日はたまたま面白そうなドラマを見つけ見ていましたが、全く思考の声が聞こえない。
今までだったら、ドラマに対してのあーだこーだだったり、世間に対してのあーだこーだだったり、ドラマの登場人物や境遇を自分と照らし合わせてあーだこーだだったり。
とにかく批判だったり、うらやましさだったり、自分と比較して自己否定したり。
テレビに限らず、今まで本当に思考の声がうるさくて、時には気が狂いそうになっていたり、これが一生続くのかと絶望したりしていたのに、今の状況があまりにも不思議すぎて、自分の中で「???」しか浮かびません。まぁこれも思考でしょうが。
あまりに不思議がっていてまた左脳が活発化しては元も子もないので、この状況に慣れていって定着させていく方向に向かなきゃなぁと思っています。
3ヵ月目もエレベーター呼吸をしっかりやって、右脳回路を定着させていきたいです。
ふと思いついたことなので、自分メモ投稿です。
「わたし」という意識と「からだ」が一体化していないことに気づくことが、「わたし」という意識に気づき、また「わたし」がいないということに気づくことにつながるのかも。
ただし、ずっと「からだ」との分離を感じ続けていると、鬱になったり虚無感を感じやすい。
本来「体験」をしたくて自ら「からだ」の中に入ったはずなのに、「からだ」を感じず「わたし」の意識のみにフォーカスすることは、つまり望んだはずの「体験」を放棄することにもなるので、「からだ」と「わたし」が分離し鬱や虚無感を感じたり、最悪統合失調症等の精神疾患になりやすいのかもしれない。
それを防ぐためにも、「わたし」と「からだ」が一体化していないことに気づきつつも、「わたし」と「からだ」のつながりを意識する。
「わたし」と「からだ」はコードのようなものでつながれていて、死ぬ時に「わたし」という意識は自らこのコードを切って「からだ」から離れ大いなる意識に戻っていくのかも。
「わたしがいない」「全部全自動」「全部おまかせ」「願望実現」「引き寄せ」などなど、いろいろな考え方や方法がある中で、究極、どれだけ自分の中に思考やエゴを残す(許す)かの自由意志が与えられているので好きなようにすればいい。
虚無感が徐々に薄れると同時に、ほぼ常時「大丈夫」「全て完璧」「全てOK」という安心感でいられるようになってきました。
過去未来のこともほとんど気にならないし考えないので、ほぼいつも「今」にいるような気がします。
体の感覚も、ネドじゅんさんのお話にあった小川に浮かんで流れていく枯れ葉を眺めるように、ぼんやり感じて過ごしています。
頭の中の声もびっくりするぐらい出てこないし、視覚も、常にではないですが、クリアに感じる瞬間が時々あります。
右脳回帰のカラーチャートでいうと、オレンジに限りなく近いように感じます。
右脳回帰に近い状態かなと思いますが、まだもう少しいけそうな(?)気がするので、様子を見たいと思います。
先週、肩凝りや頭痛が酷くて、いつもなら偏頭痛も寝れば治るのに、今回は薬を飲んでも寝てもしばらく痛いのが続きました。
1日目は右側の側頭部がものすごく痛かったのですが、2日目は今度は左側が、こちらは軽く痛かった感じでした。
もしかしたらこのときの前後で脳の回路が少しずつ切り替わっていったのかな・・・。
その数日後、頭の中の声がすっかり消えました。
本当に何も考えていないし、頭の中が空っぽな時が多いし(時々うっすらした何かがある時もありますが)、グルグル思考がなくなってすごく楽になったんだと思うのですが、グルグル思考が辛かったときの感覚があまり思い出せず、楽になった、ということすらあまり感じません。
三脳研に入る前に悩んでいて常に考えていたことも、ほとんど考えなくなって気にならなくなり、どっちでもいいや……と思えるようになりました。
今は、こういう世界があったんだなぁとしみじみ感じています。
頭の中の声がほとんどなくなって(まだたまに聞こえるし、自動思考もときどき出てきます)、いろいろな気づきがあり面白いです。
日記を書く習慣があったり思考を観察するというのは以前にもやっていたりしていて、思考を俯瞰して見ることに慣れていたので私は思考のほうが先に落ち着いてきたけど、体の感覚はまだまだだなぁと思っていました。
自動思考がなくなったら体のほうの感覚も分かるようになると思っていたので、「体は体でもう少し意識的にワークをしないといけないのかな、まぁ、体のほうは、エレ呼を続けたり自分の動きに気づき続けるようにしたりしながら、気長に取り組めばいいや」と思っていました。
それで最近はこの動画を見ながら、体の特に中のほうを意識してみたり。
前にここで、「きれいだなぁ」とか「おいしいなぁ」とかそういう感覚を言葉で感じるのではなく、それそのままを感じられるようになりたいと書いたかもしれません。
感じるのと同時に言葉で「きれいだなぁ」とか「おいしいなぁ」とかが出てきていたので。
今まではそんなことすら気づかずにいたけれど、右脳回帰のことを知ってから、本当は体で感じた感覚があるのにそれを感じる間もなく瞬時に言葉でかき消しているんだと気づきました。
それがものすごくもったいないことのような気がして。
でも、頭の中の言葉がなくなったので、それができるように?なりました。
さっきご飯を食べながら……
・・・(左脳:お味噌汁熱いなぁ)
・・・(左脳:キーマカレー辛いなぁ)
・・・(左脳:お味噌汁のお出汁おいしいなぁ)
・・・(左脳:窓から差し込む太陽がきれいだなぁ)
などなど。
それでふっと気づいたのですが、自動思考がなくなって声が聞こえなくなったら、自動的に体の中の感覚を感じられるようになっていたのです。
あぁ、自動思考に取り組めば、体の感覚は自然に分かるようになるというのはこういうことかと腑に落ちました。
「おいしい」も「きれい」も全部意味づけであって、それそのものを味わっているわけではなかったなぁと思います。
先週から、気づいたときだけですが、物を特に見るときに言葉を介して見ないようにしていました。
物の名前を極力考えないという感じでしょうか。あえて言うなら「それ、それ、それ……」だけどとにかく名前を知らない振りをするというか……。
(そのとき、一瞬だけですが、右脳回帰された方が仰る視線がスーンッを感じました。すぐ普通に戻りましたが)
物を見るときも同じで、自動的に全部意味づけしながら見ているなと思いました。
カーテンレールに洗濯物がかけてあるのを見て、
・・・(左脳:服)がかかってるなぁ
とか。
暑い・寒いも同じでした。
・・・(左脳:暑い暑い)
自動思考がなくなれば体の感覚が生き生きし始めるというのは、逆に言うと、自分がいかに思考のフィルターを通して物事を見たり聴いたり感じたりしているかということを表しているなと思いました。